ケニア日記

ケニアのNGOでのインターン記を綴っていたブログ。今は電器メーカーの財務で働いてます。

文学部なんて嫌いだー

卒論は現在675/40000文字、2%弱が終わった計算だ。
このブログがうちの教授の目にとまる可能性は限りなく低いと思うので、文学部への愚痴を書く。
 
僕は文学部倫理学専修課程学生なので、二宮尊徳の経済と倫理というテーマで卒論を書く予定だ。
これは要するに尊徳がどうやって金儲けと道徳を両立させたのかというのを明らかにしようというものだ。二宮尊徳について、薪を背負って本を読んでいる金二郎しか知らない人のために簡単に紹介すると、彼は報徳仕法という独自の方法を持って、村や藩の経済を立て直した人で現代風に言うなら経営コンサルタントのような人だ。ちなみに私財を投じた上で、実際に村に乗り込んで立て直したりしているので、ハンズオン型の金二郎ファンドのマネージャーとでも言った方が正しいかもしれない。
 
僕が尊徳をテーマに選んだ理由は、彼が計量的に物事をとらえ、実際に成果を残している点と、あまり王道の思想体系にとらわれていないからだ。
前者に関して、文学部の研究というのはちょっと意味が分からないことが多い。数字が出てこず実験が行われず、基本的に感性とか理性とか象徴界とか現象界とか魔法の言葉で事象が説明されて、みんなそれに納得している。だいたいの主張の根拠が過去に偉い人(カントとかそういう人)がこう言ったから、であり自分が何かを主張するときはあくまで先人の発言に基づいてそれに謎の解釈を加えるという形で行われる。
この結果参入障壁が非常に高い学問になっており、教授など偉い人に全く太刀打ちできない。つまりインプットするべき知識が多すぎて、また若い人の方が有利な創造性を発揮する機会が少なく、何かを主張するには過去の文章などに基づいていなければならないので、とにかく膨大な書籍を読まなければならず、このことが知識量の少ない学部生の価値をゼロにしている。
少なくとも国立大学においては文学部は廃止して(社会学など統計に基づく分野は良いと思う)、思想などはリベラルーアーツとして教えるにとどめて、やりたければ私立大学でやれば良いと思う。理系の研究は社会をよくする発明などが生まれうるので国として投資する価値はあろうが、文学部の研究は全く価値がないとは言わないが少なくとも税金を投入するのはやり過ぎだと思うので私立でやれば良いと思う。
 
1つ目から長くなってしまったが、とにかく尊徳というのはこういう訳の分からない思想とは無縁のところにある人なのだ。彼がやったことは自分の田畑を増やしまくって、そこで得た小作料を今度は貸し付けに回して、その利益でまた田畑を買ってと、とにかく資本を転がしまくってお金を増やしたのだ。そうした築いたお金で今度はマイクロファイナンスを始め、農民の低利で融資していたら藩から持ち上げられ、歴史の教科書に載り、銅像にまでなっていたというのが尊徳だ。つまり金儲けの後でたまたま良いことをしたので倫理というカテゴリーで取り上げられるのだ。400年後の人が21世紀の倫理思想とか言ってビルゲイツを取り上げるようなものだ、それはちょっと言い過ぎか。だから他の倫理というカテゴリーにくくられる人と比べて僕にとっては書きやすいし、純粋に尊敬している。
 
後者に関して、これもつまり前者と同じようなことなのだが。尊徳とは学者ではないのだ。あくまで出自は農民で、やってることの基本は商人であり、そういう人がたまたま四書五経とかを読んでて、そこに書いてある言葉をそれっぽくしゃべったりしたおかげで倫理思想というカテゴリーになぜが入れられているが、その思想は王道思想ではないのだ。
王道思想に関して素人が論文を書くのはしんどい。たとえば江戸時代の儒教について語ろうと思ったら、儒教のルーツにある朱子学についても勉強しなければならず、朱子学を学ぶためにはそのまたルーツの…と参照すべきことが多くなって、はっきり言ってしんどい。しかも王道思想であれば教授の方が当然よく知っており、読み込んだ文献の数だけ良い文章が書けるというもので僕のような三下の人間には何のバリューも出せないのだ。僕は決して参照すべき書物の数を減らして楽をしようとしている訳ではなく、自分にしか出せないバリューを追求しているのであり、その結果が亜流の尊徳なのだ。