ケニア日記

ケニアのNGOでのインターン記を綴っていたブログ。今は電器メーカーの財務で働いてます。

現代の二宮金二郎

僕はスマホが大好きで、家にいるときは基本的に横になるか、座椅子に座ってスマホをいじっている。
出かけるときに持ち歩くのは当然のことだが、信号待ちの時、エスカレーターに乗っているときでもポケットからスマホを取り出す。信号待ちの後などは、最近話題の歩きスマホ状態になったりする。ごめんなさい。でもうちの近所は渋谷のように人で混み合っていないので許してほしいです。
 
二宮金次郎の銅像で有名な、薪を背負って本を読みながら歩いている様子は、薪を運ぶと時間すらも勉強に充てる様子がすばらしい!ってことで銅像になって、人々に勤勉を説いているわけだ。僕も金二郎先生を見習って移動時間を惜しんでスマホで情報収集しているわけだが、現代社会ではこれは良しとされないらしい。まあ江戸時代の農村と渋谷のスクランブル交差点では人口密度が桁違いだし、現代社会では車という殺人兵器がぶんぶん走り回っているわけで、歩きスマホを止めろという主張に反対するつもりはないが、僕はゲームをしている訳でもメールをしている訳でもなく情報収集をして勉強をしているのであり、その気持ちは金二郎と変わらないということを理解してほしい。
 
僕の家はインターネットへの適合が早い家庭で、かなり早くから光回線だったし、田舎のアホなガキどもにインターネットを通じた情報収集という概念が通じる前から僕はgoogle中毒だったので、ゲームの攻略法や、カードゲームの戦術などをネットから丸パクリして、情報格差に基づく競争優位性を確立していた。
昔はせいぜい本を1冊持ち歩くのが限界で、移動中はその本を読むか音楽を聴くくらいしかすることがなかった。そして家に帰ったら何よりも先にパソコンを立ち上げる、これが僕の中学から大学2年生くらいまでのライフスタイルだった。しかしスマホを手にしてからはパソコンを立ち上げることも減り、外出中も様々な情報に触れられるようになった。最近はスマホを持つ中高生も当たり前になっているようで本当に羨ましい。僕が学生だった頃より格段に多くの情報に触れられるし、勉強になる。つまらない授業中もスマホがあれば退屈しないですむ。
 
文字と紙が登場する以前は知識は口伝で伝えられていた。これくらいの時代であれば年寄りには知識があるので存在価値があった。やがて文字と紙が登場し、知識は紙を通じて伝えられるようになった。たぶんこの頃から人類の知識は相当増えた。そして現在知識を残す媒体がウェブ上に変わりつつある。
何が言いたいかというと、僕が卒論で欲している情報が全然オンライン上にないのだ。オンライン上に似たような論文などが見つかるはずもなく、図書館の書庫に潜って、昭和二十年に書かれた本を読んで論文を書いている。人類が紙媒体を使い続けていた間はこうした本も参照されることもあったのだろうが、電子化されるに当たって、このような情報は消えてしまうのではないかと思う次第である。今まで本に書かれていた重要な情報は現在では当然のように電子化されているが、文学部の論文のテーマになるような古くてどうでも良い情報はなかなか電子化されないのだ。論文書いてて、読みたい本があってもどこか遠くの大学の図書館に行かないと本がない、みたいなこともたびたびあるので、早いとこ古い本をすべて電子化してほしいものだ。特に図書館なんて電子化しない理由がない。というかこのような古い本や論文を電子化してでも残そうとしないのは価値がない(少なくとも相対的に優先順位が低い)と認めるようなものではなかろうか。話が変わってきたのでこんなもんで。