ケニア日記

ケニアのNGOでのインターン記を綴っていたブログ。今は電器メーカーの財務で働いてます。

恥と法律

モンバサからの帰りは夜行バスで帰ったのだが、隣のケニア人一般男性が何とも落ち着きがなく困った。普通に座って寝ればいいものを、とにかくもぞもぞと動き、体を斜めにしたり横を向いたり、足を曲げたりとあらゆる姿勢をとってきて、深夜バスにおける絶対のルールである、二人の席の境界をいともたやすく侵犯して来た。中国の漁船に領海侵犯されてもやれやれくらいの感情しかわかない僕であるが、バスや電車の席でのこうした行為には厳しい対応をとる。
 
また、途中バスが停車した際に、この男がなんと持っている携帯で音楽を流し始めた。もちろんそんなことをしている客は他に社内にはおらず、時間が午後11時くらいだったこともあり僕は驚いた。これがケニアにおいてどこまでスタンダードな行為なのかは分からないが、とりあえず「どうしてイヤホン使わないの?」といかにも日本人らしく皮肉たっぷりに聞いてみた。しかし皮肉など解さないこのケニア人男性は「イヤホンなんて持ってないよ」と普通に答えた。日本人ならコミュ症認定されるところだ。その後も信じられない、みたいなリアクションしたり、多少のやりとりを経て彼は音楽を止めた。
 
 
人間が自由を獲得しだした頃から、人間の行動は法律によって縛られるようになってきた。逆説的だが自由を得ることで自由を失っていったのだ。わかりやすい例を出すと、仮に窃盗が社会的に禁じられていなければ、みんな窃盗を行うだろう。そしてその警戒のために多大なコストが投じられ、社会的な無駄が発生する。そこで盗みを法で禁止することで、個人は窃盗の自由は失ったが、代わりに盗まれないことを保障されるようになるわけだ。
 
日本は恥の文化であるとよく言われるが、恥の感覚は法律と同じようなものだと思う。つまり、一個人のレベルで見れば恥とされる行為をすることはその個人の利益にはなる。しかし他の人もみんなやり出したら社会的に大変なことになるのでそれを禁じる。西洋社会なら法律で定めるが、日本だと恥という概念を作り、社会的にそういうことしたらだめだよねーみたいな空気を作るわけだ。これはみんなが農業をしていた村社会においては村八分というは恐ろしい制裁になり得るので、かなり上手く機能していたのだが、最近は誰も村のような狭いコミュニティで生活していないので、昔は恥とされていたことが守られなくなっている。たとえば電車の中で化粧をする理由の一つに、どうせ見ているのは知らない人ばかりだから関係ないというのもあるだろう。
 
 
こういうルールは律儀に守っている人が少なくとも短期的には損をする。窃盗の例に戻ると、みんなが均等に窃盗を行えばそれはそれで資産が均等に分配される気もするが、一人だけ絶対に盗みはしない!という人がいれば高確率でその人の資産だけ減っていくだろう。
冒頭のバスの話に戻ると、自分の席でごそごそするだけなら、なるほど、こういう行為はケニアでは恥とみなされないのだなーと僕も大人しく観察していたものを、席の境界を越えた時点でそれは僕にとって許せる問題ではなく、きちんと対応させてもらう。自分の権利は自分で守る。そうじゃないと損するのは自分だ。
 
日本人にとって恥と見なされる行為のいくつかは、世界的には恥ではないし、まして罪にも当たらない。そして日本人はジャパニーズ・スタンダードをグローバル・スタンダードだと思い込んで、勝手にそれを向こうに要求して、驚かれるというのもよくある話だ。
要求するのは勝手だが、それがスタンダードではないということはしっかりと認識しておくべきだし、その上で要求するならしっかりと契約を結ぶなりして強制するべきで、日本的なのりでまあこれぐらい察してくれるだろうと思っているとまるで察してくれない。英語以外に日本人が日本の外で暮らしにくい理由はこれだと思う、つまり日本人が期待するレベルで空気を読んでくれないのだ。そのたびにいちいち説明しないといけないので面倒だったりするわけだ。